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319. 思い出の学生寮

[2024.05.10]

318話のつづきです)

 山形の龍上海でラーメンを食べた後は、私の母校・山形大学医学部のキャンパスや、かつて住んでいたアパートをめぐりました。昭和時代末期に建てられたこのアパートは、数年前にリフォームされたようで、現代風(?)な外観になっていました。
 そして、クルマで約10分移動。私が山形大学に入学してから1年間だけ住んでいた、学生寮に到着しました。

 現在ではリフォームされてとてもきれいな建物になっていますが、私が住んでいた当時は、正直言ってオンボロでした。初めてこの建物を見た時は、思わず絶句したものです。この寮への入寮を命じた親を恨みたくなりました。ただ、実際に住んでしばらく経つと、それなりに慣れてしまいました。
 私が住んでいた当時、この寮は「自治寮」という形態でした。「自治寮」とは、寮生が主体に運営する寮のスタイルのことです。寮生は、寮の運営に積極的にかかわる必要があり、私もよく運営に参加しました。最近の学生寮は、完全個室になっているところが多いようですが、私が当時住んでいた寮は、5人で3部屋(遊ぶ部屋、勉強する部屋、寝る部屋)を使う方式でした。同じ部屋のメンバーは、栃木(私)、茨城、愛知、宮城、秋田とすべて出身地が異なっており、所属学部も、医学部(私)、人文学部(現・人文社会科学部)、工学部、理学部、農学部と様々でした。このメンバーは結束力があり、日曜日には、一緒にボーリングへ行くなどよく遊んだのを覚えています。キッチン、洗面所、トイレ、お風呂は共同。平日に限り、食堂にて夕食が提供されました。バランスがとれた食事で、ボリュームがあり、とても助かりました。それ以外の日は、部屋のメンバーで食材を購入し、料理をしてみんなで食べたこともありました。部屋のメンバーだけでなく、他の部屋の寮生とも仲良くなり、あちこちでかけたものです。
 寮ではしばしばイベントが開催され、私もよく参加しました。仮装行列では、寮生みんなが仮装をして、市内をパレードしました(私がどのような仮装をしたのかは失念しました)。また、山形市の野球場を借りての野球大会にも出ました。ただ、私は試合に出場するのではなく、スコアボードを操作する係でした。このスコアボードは昔ながらの、イニングに点数のボードを入れるもので、私がふざけて、「20点」のボードを適当なイニングに入れたところ、先輩から「ふざけるんじゃない(笑)!」とお叱りを受けました。たいていはイベントの後には、コンパがありました。私は当時未成年だったため、お酒は免除してもらえました。お酒がなくてもワイワイ楽しめたものです。
 様々な思い出のある、この学生寮は、1年で出ることとなりました。大学2年から、医学専門課程のキャンパスに移行するためです。この数年後、様々な事情により、「自治寮」としてのこの寮は「廃寮」となり、完全個室の寮に大改装され、大学が管理する「管理寮」というスタイルに変わってしまいました。全国的にみても、私が当時住んでいたスタイルの寮は少なくなってきており、完全個室でプライバシーが確保され、セキュリティ―万全の寮に変わりつつあるようです。時代の流れとはいえ、少し寂しさを覚えます。

 

 

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