メニュー

258. 大川小学校

[2023.03.17]

 先日私は、宮城県石巻市の大川小学校を訪れました。
 ここ大川小学校は、東日本大震災の大津波により全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明となった、悲劇の地です。現在、校舎等は震災遺構として整備され、その近隣に「大川震災伝承館」が建てられています。
 まずは、被災した校舎を眺めました。校舎の窓側の部分はほぼ破壊され、渡り廊下は倒されていました。更に、体育館は基礎部分や一部を残して跡形もなくなっていました。改めて、津波のすさまじいパワーを思い知ることとなりました。私がこの地に到着したのが朝9時過ぎで、他に見学者はおらず、ひっそりとした感じでした。震災前まではこどもたちでとても賑やかだったのだろうと想像すると、とても胸が痛みました。

 続いて、「大川震災伝承館」に寄りました。ここでは、津波被害の概要やその後の裁判の経過についての資料がありました。震災当日での出来事が時系列に記された資料によると、14時46分の大地震発生から津波の到達まで51分の時間があったそうです。その間、こどもたちは学校の指示により校庭で待機させられていたとのことでした。学校のすぐそこに裏山があり、一部のこどもや保護者などから、「山に避難しよう」という声が上がったそうです。また、こどもたちがすぐに避難できるよう、スクールバスも待機していたという証言もあります。しかし実際には学校の判断で、やや標高が高い、「三角地帯」と呼ばれる橋のたもとへ避難を開始しました。そのときの時刻は、地震発生から50分後の15時36分。その1分後に津波が到達してしまったのです。
 実は、震災前に石巻市の教育委員会は各学校に対し、防災体制の見直しを指示していました。「2003年からの30年以内に99%以上の確率で大地震と津波が発生」という県の想定があったためです。しかし、大川小学校のマニュアルには「近隣の空き地・公園に避難」と書いてあるだけでした。ただ、この近くには空き地も公園もありませんでした。このように災害への備えを怠ったことが、避難の遅れに結び付いたという意見があります。あらかじめ学校は「万一大きな津波が来たら」というワーストケースをもとに具体的な避難方法をマニュアルに盛り込み、そして防災訓練をきちんとしていたならば、今回のような悲劇は起こらなかったのかもしれないと感じずにはいられません。
 そして、慰霊碑に立ち寄り、犠牲者の方々にいのりを捧げました。


慰霊碑付近から校舎方向を眺める。手前の建物は大川震災伝承館。
震災前は学校の付近には、家々があり、郵便局や診療所もあった。集落は2011.3.11の大津波で壊滅的な被害を受けた。震災後この地域は居住できない「災害危険区域」に指定されたため、現在住宅は全くない。
【案内板のことば】
大川には 海があり 川があり 山がある
古来より自然とともに生きてきた
いのちをつないできた
ここに暮らし ともに生きた歴史は
わたしたちの心と この大地にしっかりと刻まれています

【参考文献】
・リーフレット「大川小にお越しの皆様へ」(大川震災伝承館にて入手)

 

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME