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311. 大川小学校 再び

[2024.03.15]

 昨年末、私が所属する日本精神神経科診療所協会(日精診)から、「災害対策研修会」の案内のFAXが届きました。この研修会には、東日本大震災の大津波で多数の児童や教師が犠牲になった、石巻市の大川小学校の見学会も含まれていました。私は昨年に一度、大川小学校を訪問したことがあります(258話)。その後、関連書籍1)を拝読し、更に津波裁判を闘った人たちのドキュメンタリー映画2)も鑑賞していたこともあり、もう一度大川小学校を訪れてみたいと思っておりました。日精診からの研修会の案内をみて、参加してみようと思い、申し込みいたしました。

 研修会当日、仙台駅に集合。研修会メンバー一同は、貸切バスに乗り、石巻市のホテルへ。まずは、被災地での「心のケア」支援活動の取り組みに関するご講演を拝聴いたしました。昼食のあとは、再びバスに乗り、大川小学校へ移動いたしました。

 大川小学校にて、語り部のSさんと合流。Sさんは、震災当時中学校の教諭をされていた方で、当時大川小学校6年生だった娘さんが津波で犠牲になられています。まずは、震災前の学校の様子についてのお話を伺いました。Sさんは大川小学校での運動会の様子や、学校の中庭にて一輪車で遊ぶ子どもたちなどの写真も見せてくださいました。「この地は、被災地と言われる前は、全く被災地ではなかった」というSさんの言葉に、大変胸が痛みました。


2011年3月11日
いつもと同じ朝でした
「行ってきます」の後ろ姿を見送ったあの日
「寒かったでしょう」とあたたかい手で抱きしめてあげたい
(2023/03/09撮影)


「未来を拓く」
これは大川小学校の校歌のタイトルにもなっている。

(2023/03/09撮影)


学校の裏山。山にある白い看板は「津波到達点」。8.6mの高さの津波が襲った。

 続いて、Sさんの案内で、学校の裏山を登りました。この裏山は、学校のすぐ近くに登り口があります。傾斜は緩く、我々でもそんなにも苦もなく登ることができ、数分くらいで、地面がコンクリートで固められた高台に上がることができました。


裏山から撮影した、大川小学校。

 震災当時この高台に逃げていれば、助かったのではないか、と誰もが思うことでしょう。実際に震災当時、「子どもは裏山に登ったから無事だろう」と思っていた保護者の方もいたという話を聞いたことがあります。しかし、残念ながら教師や子どもたちはこのような行動はしませんでした。校庭に児童が待機させられ、その間どこに逃げるべきか先生たちで議論になってしまいました。山に逃げようとする子どももいましたが、先生に注意され呼び戻されてしまいました。「子どもを乗せて避難」という無線連絡を受けたスクールバスがエンジンをかけたまま校庭に待機していました(残念ながらこのバスの運転手も犠牲になりました)。地域の人や子どもたちも「山に逃げよう」と訴え、更には市の広報車も高台への避難を呼びかけましたが、それでも山に登ることはしませんでした。結局、地震から50分が経過して、逃げる場所として決定されたのが、やや標高が高い「三角地帯」と呼ばれる場所でした。山でなく川へ向かって避難しようとしてしまったのです。学校から出るために細い出入口を通る必要がありました。そこをゆっくり1列になって進んだ先が、なんと行き止まりの場所でした。そして、避難開始から1分で津波が到達してしまったのです。


「大川小にお越しの皆様へ」リーフレット3)から引用。

 なぜこのような大惨事になってしまったのか。避難場所を予め決めていなかった上、避難場所を教員間で共有してこなかったからだと言われています。そのために、大地震が発生した当時、現場ではどこに逃げるべきか(そもそも逃げるかどうかも含めて)議論になってしまい、パニックにまで陥りました。人はパニックになると正常な判断ができなくなってしまうこともあります。だからこそそのような誤った決断をしてしまったのではないかと想像してしまいました。
 実は、震災前から、99%以上の確率で大地震と津波が発生するという想定があり、市の教育委員会が各校に防災体制の見直しを指示してきました。大川小学校にもマニュアルはありました。「近隣の空き地・公園に避難」という内容でした。しかし、近くには空き地も公園もなく、実態に合わないマニュアルだったのです。大川小学校は海から3.7km離れており、おそらく学校は、ここまで津波は来ないだろうと甘く考えてしまったのではないか、だからこそ熟慮せず「マニュアルは適当に書いて出せばいいや」という心境になってしまったのかと私は邪推してしまいます。
 しかし防災計画というのは、命を守るためのものです。Sさんが「山は命を救えない。(我々が)山に登るという行動が必要」「具体的な避難場所を決めるのは、そんなにも複雑ではないし、マニュアルを見返し職員で共有するのはそんなにも時間がかかるわけではない」「高台に逃げても津波がこなかった学校も多かった。それでよいのです」とおっしゃっていたのが印象的でした。私も今回の見学会で、予めワーストケースを想定し、そのリスクに対する備えをしておく大切さを学んだのでした。

【お断り】今回の記事は、一部258話と内容が重複する箇所があります。また、伝承館で頂いたリーフレット3)を引用した箇所もあります。このページに載せた写真は、すべてクリックで拡大できます。また、研修会当日(2024/03/10)に撮影したものだけでなく、昨年(2023/03/09)に撮影したものも載せています。昨年の写真は説明文を茶色にしています。
 なお、当院開業前から週1回ペースで更新してきたこのブログは今回で311話に達しました。偶然、東日本大震災の発生した3月11日(3.11)と被りました。

 

1) 池上正樹、加藤順子:あのとき、大川小学校で何が起きたのか.青志社,東京,2012.
2) 「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち
https://ikiru-okawafilm.com/
3) 「大川小にお越しの皆様へ」リーフレット(下記サイトでもダウンロードできます)

「震災遺構大川小学校ガイド」
http://311chiisanainochi.org/?page_id=6186

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