86. 利他の心
私は勤務医時代から、稲盛和夫氏の書籍を拝読してきました。稲盛氏は、日本を代表する実業家で、京セラ、第二電電(現・KDDI)の創業者です。また、日本航空(JAL)が経営破綻に陥った際には無報酬でJALの会長に就任し、わずか2年で経営状態をV字回復させた実績もお持ちです。
経営者が執筆した書物は数多くあります。中には自らの功績などが延々と書かれており、おごり高ぶった印象のものもあります。それに対し、稲盛氏の文章は、おごりなどの印象は全くなく、むしろ謙虚さがうかがえます。しかしながら、経営者にとって大切な構えや心の持ちようがしっかり書かれており、きわめて説得力のある内容です。
稲盛氏は、経営において「利他の心」が大切であることを強調されています。「利他」とは簡単に言えば、「世のため、人のために尽くす」ということ1)。「自分のため」を後まわしにして「他人のため」を優先することです2)。稲盛氏はさらに、自らの経験で、ビジネスにおいても、その他の人生万般に関しても、「相手が得をするように」という思いを基準に判断したことは、すべて成功してきたと明言されています2)。
特に、稲盛氏が第二電電を創設される際のエピソードは有名です1)。当時、通信事業はNTTが独占しており、外国に比べ割高な通信料金でした。そこに稲盛氏が新たに通信事業の会社を創設すれば、NTTと健全な競争原理が働き、料金が値下げされ、結果国民が恩恵を受けるのでは、と稲盛氏はお考えになりました。しかしながら、思い立ってすぐに実行に移されたわけではありませんでした。この新規事業参入が、本当に国民のためを思ってのことか、それとも自分の会社の利益を図ろうとする私心が混じっていないか、世間からよく見られたいというスタンドプレーではないか、などと自問自答を繰り返されたとのことです(「動機善なりや、私心なかりしか」と稲盛氏が自らに問い続けられたエピソードはあまりにも有名です)。約半年間熟慮を重ねた結果、この新規事業は国民のためであり、自分の心の中には少しも邪(よこしま)なものはないと確信し、第二電電の設立に踏み切られました。その後、第二電電は他社との合併を経てKDDIへと成長発展し、また携帯電話事業も現在はauとしてNTTドコモなどとしのぎを削っていることは、ご存じの通りです。
この「利他の心」に相当する言葉は、森田療法にも登場します。
まずは、昭和7年の第20回形外会(森田正馬先生がご意見番を担当された座談会)にて、森田正馬先生は次のように述べられています。
およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいという事になる。これに反して、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんな事は、どうでもよいという風に、大胆になれば、初めて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人になろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、かえって善人になるのである。3)
また、青木薫久先生はご著書の中に、「人のためにつくす」という語句を用い、とても分かりやすく解説されています。
人は、なにか事がおきたとき、困難にぶつかったときこそ、周囲の人たちのことに思いをめぐらし、「それらの人が少しでも便利に、しあわせになるように」考え行動することが大切であり、この方針で行動することがしばしば人生の危機や困難をのりこえる活路を見出すことになるものです。また“人のためにつくす”方針でいけば、かならず道は開けるのだ、ということを知るはずです。4)
当院はこれからも、「利他の心」を大切に、「人のために、地域のために尽くす」をモットーに、地域医療に邁進いたします。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
【引用文献】
1) 稲盛和夫:生き方 人間として一番大切なこと.サンマーク出版,東京,2004.
2) 稲盛和夫:心。人生を意のままにする力.サンマーク出版,東京,2019.
3) 森田正馬著,高良武久編集代表:森田正馬全集第五巻.白揚社,東京,1975.
4) 青木薫久:《新装版》なんでも気になる心配性をなおす本 よくわかる森田療法・森田理論.KKベストセラーズ,東京,1999.