90. 不遇に耐える
日本を代表する実業家、稲盛和夫氏(86話参照)は、27歳のときに7人の同志と一緒に京都セラミック(現・京セラ)を創業されました(1959年)。当時は従業員28名の小さな会社だったそうです。それから次第に発展し、現在はグループ従業員数7万人以上の大きな会社になったことはご存知の通りです。
稲盛氏の前半生は、挫折の連続だったといいます。中学入試に失敗し、翌年にも同じ中学を受けるもまた失敗し、結局すべり止めの学校に入られました。しかも中学の受験勉強のときに結核に罹患し、死の恐怖に襲われたそうです。大学入試も、第一志望の大阪大学にはねられ、地元の鹿児島大学に入学。大学を卒業するときに受けた就職試験もすべて不合格となり、担当教授の紹介でやっと「松風(しょうふう)工業」に就職されました。
しかしながらその会社は、今にもつぶれそうな赤字続きの会社だったのです。建物はボロボロで、給与の支払いも遅れる状況だったそうです。一緒に採用された新入社員とともに「こんなボロ会社では将来が期待できないから、早く辞めよう」と不平不満をこぼしていました。実際に、新入社員が次々辞めていき、しまいには稲盛氏を含め2人だけになってしまいました。2人で話し合った結果、会社を辞めて自衛隊に入ろうと決意。自衛隊の学校に入るための試験に2人とも合格しました。その学校に入るためには戸籍抄本が必要で、2人とも郷里に「戸籍抄本を送ってほしい」と頼みました。友達のほうはすぐさま抄本が送られてきましたが、稲盛氏のほうは何度も催促しても送られてきませんでした。その代わり、郷里から怒りの手紙が届きました。鹿児島の実家では戦後の混乱の中貧乏な生活を送っている。そんな中ムリして大学に行かせたのに、会社の悪口を言って辞めるなんてけしからんことだ。会社に入れただけでもありがたいと思って働きなさい、という内容でした。結局稲盛氏は自衛隊にも行けなくなり、しかも当時は就職難であったことから、その会社に一人だけ残らざるを得なかったのです。
ここで稲盛氏は考え方を切り替えられました。「どうせ行くところはない。これ以上不平不満を言ってもしようがないから、この会社で研究に没頭してやろう」と決心されたそうです。それからは研究に打ち込むようになり、時には研究室に泊まり込むこともありました。一生懸命に研究を始めると、次から次へと素晴らしい研究成果が出始め、上司から褒められるようになりました。そうなると研究も仕事も面白くなる、さらに努力をする、という好循環が生まれました。そして、遂には稲盛氏の研究成果が松下電器(現・パナソニック)グループに採用され、自ら研究開発されたものが工業化され、大量生産されることになったのです。それは、テレビのブラウン管向けの絶縁用セラミック備品「U字ケルシマ」です。
その後、会社の上層部との確執から、稲盛氏は独立を決意され、京都セラミックを創業されることになります。
もし稲盛氏があっさり松風工業を辞められて自衛隊へ行かれたなら、現在の京セラやKDDIは存在しなかったでしょうし、稲盛氏の数々の経営関連書籍も我々は読むことは決してなかったでしょう。
この稲盛氏のお話は、「不遇に耐えて」今の職場に留まり、一生懸命仕事に打ち込むことで、最初は嫌だった仕事も次第に面白くなり、そして自らの成長につながることにもなるのだ、ということを啓蒙させられるエピソードだと思います。
【引用文献】
・稲盛和夫:二十一世紀の子供たちへ 君の思いは必ず実現する.財界研究所,東京,2004.
・稲盛和夫監修:稲盛和夫 新道徳 子どもこころの育て方.西東社,東京,2018.