401. 山形新幹線と私 後篇
前篇のつづきです
山形新幹線新庄延伸に伴い、400系車両の塗装も変更された。
医師免許取得し、新庄の病院へ
医学部を卒業し、医師国家試験に合格した私は、山形大学精神科の医局に入局しました。すぐさま、関連病院へアルバイトとして派遣されることとなりました。派遣先は数か所あり、そのうち一つが新庄市の病院でした。もちろん私は新庄を志願しました。新幹線での通勤ができるというのが理由でした。以後、週1回のペースで山形新幹線に乗り新庄へ行くことになります。
その2年後、医局からの命令で、その新庄の病院の常勤医として赴任しました。あこがれていた通勤定期を買い、毎日山形市から新庄市まで新幹線通勤をしました。いつも利用した列車は、山形を7時台に発車し、新庄へ向かう「つばさ181号」(のちの171号)。車内は乗客が非常に少なく閑散としていました。読書や勉強をするのに最適な環境でした。気象予報士試験(252話)の勉強もこの列車の車内でこっそりしていました。
この新幹線通勤で困ったことがありました。山形新幹線が雪に弱いことです。一晩で大雪が降ると、除雪が間に合わず、新幹線が運転見合わせになってしまうこともありました。とある日山形駅に到着すると、「山形新幹線運転見合わせ」のアナウンスがありました。新庄へ向かう普通列車も運転できないとのこと。これでは新庄の病院へ出勤できません。病院に電話し遅れる旨を伝えると、事務長から「タクシーでもいいから早く来なさい!」と怒鳴りつけられました。当時私は車を所有しておらず、駅前のタクシー乗り場へいったもののタクシーが1台もなく、結局山形駅で運転再開を待つしかありませんでした。かろうじて運転再開した普通列車や代行バス(という名のジャンボタクシー)などを乗り継いで何とか新庄の病院に到着すると、院長や事務長から「常勤医でありながら遅刻するとは何事だ!」と説教されました。この遅刻は、明らかにJRの責任であり、私には一切非はありません。院長らからこのように説教をされるのは非常に理不尽と思い、憤りを覚えました。なお、この病院が「ブラック企業」であることに気づいたのは、ずっと後のことです。
(注)そののち、この病院は経営者が大幅に変わり、病院名も変更になったそうです。
鶴岡に転勤
このブラック病院に常勤医として勤務して3年経過し、4年目を迎えようとした矢先、突如大学の医局長から電話が来ました。「鶴岡の病院に転勤しなさい」というお話でした。これでようやくこの病院から抜けられると安堵し、山形県内陸の山形市から日本海側の鶴岡市に引っ越しました。転居に伴い、山形新幹線に乗車する頻度は激減しました。鶴岡から東京へ行くのに、飛行機を使うことが増えましたし、鉄道利用の場合は新潟経由で上越新幹線に乗るのが便利だったためです。それでも時間があるときは、新庄経由で山形新幹線に乗ることもありました。そんな中、山形新幹線開業から運行を続けてきた400系車両が引退し、E3系2000番台が導入されました。
2010/04/24、新庄駅にて。
左がE3系1000番台、右がE3系2000番台。顔つきが異なっており、2000番台では車内の居住性が大幅に改良されている。新庄駅にて。
那須塩原へ
2012年、医師免許を取得して10年経過しました。そろそろ栃木県に戻りたいと思ったことから、16年間住んでいた山形県を離れ、那須塩原市に転居しました。
栃木県に移ってからも、所用で何度か山形を訪れております。山形へは、乗用車を利用することが多いのですが、雪が降り積もる冬季には山形新幹線を利用することにしています。余談ながら、昨年は3回山形へ行きました。そのうち1回は、吃音の自助グループ「山形言友会」のイベント参加で、あとの2回は、私が学生時代から応援しているプロオーケストラ「山形交響楽団」の演奏会の鑑賞です。残念ながら今年は山形には行けませんでした。来年こそは訪れたいです。
2014年、山形新幹線車両の塗装が変更になった(2024年3月、山形駅にて)。
おわりに
これまで述べた通り、私は長年山形新幹線を利用してきました。その間、車両は、400系からE3系1000番台、2000番台に変遷していきました。E3系2000番台も今年度で引退することが決まっており、新型車両E8系にすべて置き換わることとなっています。
第二の故郷である山形は、食事が美味しく、温泉がたくさんあり、また山形交響楽団もあるなど魅力がとても多いです。これからも末永く、山形新幹線を利用することになることと思います。
E8系車両。
